@GB19940919’s diary

GB(https://twitter.com/GB19940919) (twitter→GB19940919)の映画感想雑記です。劇場で観た映画からWOWOWやサブスクで観た映画やドラマの感想です。

午前十時の映画祭13『ジュラシック・パークⅢ』

 

午前十時の映画祭13『ジュラシック・パークⅢ』(Jurassic ParkⅢ) [2001年アメリカ]

生物学者のアラン・グラント博士は実業家を名乗る男ポールとその妻アマンダから、恐竜が生息するイスラ・ソルナ島を上空から見学するツアーのガイドを依頼される。多額の報酬を積まれ仕方なく引き受けるグラントだったが、ポールたちはグラントとの約束を破って島に着陸してしまう。実はポールとアマンダの真の目的は、8週間前に島の近くでパラセイリング中に消息を絶った息子エリックを捜すことだった。

監督はジョー・ジョンストン。出演はサム・ニール(アラン)、ローラ・ダーン(エリー)、ウィリアム・H・メイシー(ポール)、ティア・レオーニ(アマンダ)、アレッサンドロ・ニボラ(ビリー)、トレバー・モーガン(エリック)ほか。

 

 午前十時の映画祭の『ジュラシック・パーク』シリーズ上映も本作でラストということで劇場で鑑賞できて良かった。子どもの時からこのシリーズは大好きだったが、とりわけこの3作目が好きだった思い出だ。なぜかと言うと、まずこの映画はタイトル通りの文字通りの遊園地みたいな映画だからだ。冒頭から数分で飛行機でスルナ島に到着したグラント博士御一行が不慮の事故で島に置き去りにされ地上と海と空の多種多様な恐竜に襲われながらもラストは機転の利いた3歳児に救われる。これを90分ほどの上映時間でやってしまうのだ。子どもだったら滅茶苦茶好きだし観やすい。自分が子どもの時に好きだった映画というのは、しっかりと好きな理由があるのだ。

 

 しかし今回の午前十時の映画祭で『ジュラシック・パーク』シリーズを見直してみると、この『ジュラシック・パークⅢ』が一番酷い。自分の子ども時代の好きだったものを否定するのは嫌だけど、でも酷いんだよ。監督がスティーブン・スピルバーグからジョー・ジョストンに変わったのが一番の理由なのかもしれないが。

 

 まず『ジュラシック・パーク』でかなりカッコイイ博士のエリーが冒頭とラストに少しだけしか登場せず、あの一作目での良さが全部消えてる。どういった経緯であのような役になってしまったのかは分からないが、おそらくアランのついでにエリーも『ジュラシック・パーク』復帰しますよ的な宣伝のために使われたとしか思えない。ラプトルの生態についてはあんなに詳しく言及するのに、ずいぶんエリーの役柄には言及しないなんて、ほとんど人物描写に中身が無い原作と同じになってしまっている。(ある意味原作に忠実とも言える) やはり登場人物にしっかりとストーリーを与え原作と映画の違いを明確にするスピルバーグ映画の醍醐味を再確認した。

 

 ビリーが研究費調達のためにラプトルの卵を勝手に持ち帰ろうとしてラプトルに襲われそうになり、最終的にはアランたちが直接自分たちの手でラプトルに卵を返すのだけど、なぜかラプトルがあの御一行中で唯一の女性であるアマンダが卵を奪ったと勘違いするみたいなセリフが付け加えられるんだけど、それがまあダサい。『ジュラシック・パーク』シリーズには人間が神の真似事をすることの因果方法がテーマだと思うが、なぜその因果方法がアマンダにだけやってくるのか?まあ本作の内容が行方不明になった子どもを全力で探す親なので、それをラプトルでも表現してラプトルの知能の高さを表現したかったのだろうが、だとしたらそれを母性に還元するのはダサいな。ただこのダサを『ジュラシック・ワールド/新たなる支配者』でも継承していたので、『ジュラシック・パークⅢ』だけを非難できない。改めて『ジュラシック・ワールド』シリーズの1~3作目と『ジュラシック・パーク』シリーズの1~3作目はそれぞれがオマージュになっているのだなと。