@GB19940919’s diary

GB(https://twitter.com/GB19940919) (twitter→GB19940919)の映画感想雑記です。劇場で観た映画からWOWOWやサブスクで観た映画やドラマの感想です。

『マリウポリの20日間』YouTube

 

マリウポリ20日間』 (20 Days in Mariupol) [2023年ウクライナアメリカ]

 

2022年2月、ロシアがウクライナ東部ドネツク州の都市マリウポリへの侵攻を開始した。AP通信ウクライナ人記者ミスティスラフ・チェルノフは、取材のため仲間と共に現地へと向かう。ロシア軍の容赦ない攻撃により水や食糧の供給は途絶え、通信も遮断され、またたく間にマリウポリは孤立していく。海外メディアのほとんどが現地から撤退するなか、チェルノフたちはロシア軍に包囲された市内に留まり続け、戦火にさらされた人々の惨状を命がけで記録していく。やがて彼らは、滅びゆくマリウポリの姿と凄惨な現実を世界に伝えるため、つらい気持ちを抱きながらも市民たちを後に残し、ウクライナ軍の援護によって市内から決死の脱出を図る。監督はミスティスラフ・チェルノフ。

 

 監督が現地から配信したニュースや取材チームが撮影したマリウポリの映像を元に映画化したそう。日本では4月26日より劇場で公開されるそうだが、実は去年NHK BSの番組内で放送されたそうだ。監督がYouTubeでもいいからみてほしいということでYouTubeにあがっている方の動画を観た。英語字幕が入っているのをGoogle上で日本語で翻訳されていたモノを見たが、監督としても映像や惨劇を見てほしいという思いだろう。ただしこういう映画が日本で公開されるタイミングがどうしても1年以上遅れてしまうので、本作でとらえられている現状と今のマリウポリの現状に変化があることは知っておくべきだなと思うし、やはり映画館というフォーマットで観るより、YouTubeで公開されたタイミングで観るべきだったかもしれない。NHK BSもその重要性を分かっていて去年放送したのだろう。またこうやって映画として日本公開すると配給権が発生し、それこそ安易にNHKで再放送できなくなるのは果たしていいことなのだろうか、良くも悪くも話題である今のタイミングでこそテレビで放送したほうが良かったのではないかと思うのだが、どうなんでしょうか。

 

 アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した際のスピーチで「おそらく私はこの壇上で、この映画が作られなければ良かったなどと言う最初の監督になるだろう」と発言したのですが、本当にその通りだと思う。それ以上のこの映画についてのコメントや感想は無意味である気がするが、一応書いておく。

 

 悲惨で目をとじたくなるような映像の合間に(パソコンの画面上でもやるせなくなる)、ナレーションを務めている監督の独白やカメラをまわしていることの罪悪感や使命感や望みの言葉が入るという構成だ。文字通り20日間カメラを回しているという字幕も入る。当たり前だがニュース映像として入ってくるのと、こうやって直接戦場の映像を見ているのでは感じ方が全然違う。戦争や侵略やいかにいけないことであるかを考えると同時に(これについては反論の余地なく全ての侵略と戦争に反対するべきだ)、映像のメディアにあり方についても考える。

 

 本作では侵略戦争というのは人が死ぬだけではなく、町や家や生活が破壊され、その人の人生が破壊されることでもあるというのが伝わってくる。また戦場の特徴であり、カメラを回す人間(圧倒的に男性が多いだろう)の思いものっかるので、おのずと本作の中で映る人々は女性(涙を流している人が多い)と子どもが多い。女性や子供を守ってあげないという家父長制の重しがカメラを通して伝わってくるが、これは同時に本作を観るであろう欧米社会の女性や子ども観、つまり女性や子供を守らなければいけいないという家父長制に訴えているのだろう。私は戦争にも反対だが、家父長制にも断固反対の立場にいるので、本作の作りや見せ方には申し訳ないが少し疑問もある。

『異人たち』

 

『異人たち』 (All of Us Strangers) [2023年イギリス]


12歳の時に交通事故で両親を亡くし、孤独な人生を歩んできた40歳の脚本家アダム。ロンドンのタワーマンションに住む彼は、両親の思い出をもとにした脚本の執筆に取り組んでいる。ある日、幼少期を過ごした郊外の家を訪れると、そこには30年前に他界した父と母が当時のままの姿で暮らしていた。それ以来、アダムは足しげく実家に通っては両親のもとで安らぎの時を過ごし、心が解きほぐされていく。その一方で、彼は同じマンションの住人である謎めいた青年ハリーと恋に落ちるが……。原作は山田太一異人たちとの夏』。監督&脚本はアンドリュー・ヘイ。出演はアンドリュー・スコット(アダム)、ポール・メスカル(ハリー)、ジェイミー・ベルクレア・フォイほか。

 

 山田太一が書いた小説の方も1988年に映画化された方も観たことないので、本作だけの感想になります。『生きる』でもイギリスでリメイクされましたが、本作はそれ以上にイギリスとクィアという文化に物語が馴染んでいて驚かされる。山田太一版を見たことが無いのでどちらの才覚が優れているとか指摘しようがないのだけど。ただ撮影も音楽も演技も脚本もすごく好みで観て大変良かった。そもそも日本は幽霊が活きている人間に対して何か良いことをしてくれるみたいな話が好きなのか、そういう作品がドラマでけっこう放送しているので、本作もけっこう広く受け入れられると思う。ぜひ多くの人に見てほしいと感じた。

 

 『aftersun/アフターサン』(シャーロット・ウェルズ)や『秘密の森の、その向こう』(セリーヌ・シマラ)に続く、クィアと時間旅行と家族をテーマにしている作品で、それらと同じ部類にあると言っていい。"クィアと家族"はほぼ永遠のテーマだが、クィアと時間旅行も題材として多い。だからこそアンドリュー・ヘイ監督が原作である『異人たちとの夏』を見つけて良いと思ったのも自然と言えば自然だ。クィア(本作の場合はゲイと言った方が良いのかな)を自認している監督と時間旅行で一本評論が書ける気がする。

 

 ゲイを自認する監督たちの多くはやはり親と和解したい、親の心労を理解したいと思う人たちが多いのか、本作でもそうだ。あの時、子どもの時、親に言えなかった思いを大人になって直接伝えたいと思うのだ。まあこの思いは誰にでもあるだろう。本作の中で「ゲイでいることと、悲しいことは違う」とアダムが母親に伝えるように、普遍的な悲しい思いは皆にあるものだという、本作は普遍的な物語であることを描いている。

 

 一方で本作は大変クィアでゲイな映画でもある。超ゲイであることを隠してもいない。それはアダムとハリーがセックスするシーンで最大に描かれているが、その他のキスシーンとか会話とかにもある。もちろん使用される音楽にもそれがあるが、ラストに流れるFrankie Goes To Hollywoodの"The Power of Love"の使い方は見事だな。というかFrankie Goes To Hollywoodをああいう風に使えるのはゲイの監督ならではだし。もちろん予告編からも良い感じで使われていたPet Shop Boysの"Always on My Mind"も良かったね。最近はゲイであることを自認するアーティストは増えたけど、80年代もちゃんとゲイを自認しているアーティストはたくさんいたんだ。このあたりはアメリカとイギリスの音楽シーンの違いみたいなのも感じる。

 

 去年公開されたクィア映画では、少なからずゲイの登場人物たちが自死を選んでいたのに食傷気味だったのだが、実は悲しいことに本作でもハリーは死んでいる。それでもネガティブな感じが無いのはやはり"死"ではなく"生きる"ことを描いているからだ。また色んな意味での受容を描いている。相手の身体、両親の死、自らの不安など、自分と相手の異なる物事すべてを受け入れ生きていくことを描いている。この色んな意味での受容を描いているのは去年公開された『青いカフタンの仕立て屋』(マリヤム・トゥザニ)とも比較できる。あれも受け入れる側の男性の映画だから。

 

 あと本作はゲイの恋愛でも実は歳の差恋愛を描いている。アンドリュー・スコットが若く見える、ポール・メスカルが28歳なのに円熟している、という条件が重なり歳の差恋愛には見えないが、逆にその年の差恋愛に見えない感じが異人たちという雰囲気を演出するのに一役買っているので、キャスティングの勝利だろう。

 

午前十時の映画祭14『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』

 

午前十時の映画祭14『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』 (Indiana Jones and the Last Crusade) [1989年アメリカ]

 

1938年。考古学者インディは富豪ドノヴァンから、キリストの血を受けた聖杯の捜索を依頼される。最初は渋っていたインディだったが、行方不明になったという前任者が自分の父ヘンリーだと知り引き受けることに。ベネチアで父の同僚シュナイダー博士と合流したインディは、父から託された聖杯日誌を頼りに、聖杯の在り処を示す手掛かりをつかむが……。監督はスティーブン・スピルバーグ。出演はハリソン・フォード/リバー・フェニックス(インディ・ジョーンズ)、ショーン・コネリー(ヘンリー・ジョーンズ)、ジョン・リス=デイビス(サラー)、デンホルム・エリオット(マーカス)ほか。

 

 先週に引き続き初日で観たけど、やはりというか当然というか、客が私を含めて6人くらいしかいなかった。TOHOというか午前十時の映画祭運営側がミニシアターか独立系の映画館を狙って上映かけたほうが絶対いいよ。

 

 3作目は意図的に西部劇というか、インディ・ジョーンズで西部劇をやりたかったんだということは分かる。そもそもインディ・ジョーンズが現代にいるカウボーイという設定なわけで。そして不在だった父との関係を埋めるように、さすらう父と息子が和解するのも西部劇らしい。どんな関係であれ父親を描かずにはいられない、それがアメリカ映画だ。ラストも昔ながらの西部劇ふうで、地平線を追う4人組だが、それがインディ以外はあんまりマッチョじゃない男たちというのがスピルバーグの良いところだ。

 

 あの地平線のシーンは『フェイブルマンズ』を観た後だど、感じるものが違ってくる。『フェイブルマンズ』では、スピルバーグの分身であるサミーがジョン・フォードに「地平線が上にあるのは良い、下にあるのも良い。真ん中にあるのは死ぬほど退屈だ」と叱咤されるシーンがあるが、ちゃんと本作での地平線は画面の下にあり、ちゃんとジョン・フォードの言いつけを守っていたのだと分かる。あと『フェイブルマンズ』に出てたキリストと神にある種の性愛を抱いていたあの女の子は本作におけるシュナイダー博士のモデルだったことも分かった。

 

 1作目と2作目の例にもれず本作も撮影とセットが凄くて、冒頭の少年時代の時代のシーンだけで、あの列車や船のセット組んだのか。オーストリアで父親救出、ドイツからジャンボ機で脱出するも、結果的に小型飛行機で逃げる、という一連の流れが面白すぎる。

 

 子どもの時は本作が一番微妙だったのだが、確かに聖杯探しとかテーマが漠然とし過ぎて良く分からなかった。ただ聖杯っていうのは本当にあって不老不死になるんだって子供心ながら本気で信じていたので、それくらい説得力のある演出がある映画なのだ。またこうして映画館で観れて良かった。

 

『プリシラ』

 

プリシラ』 (Priscilla) [2023年アメリカ・イタリア]


14歳の少女プリシラはスーパースターのエルビス・プレスリーと出会い、恋に落ちる。やがて彼女は両親の反対を押し切って、大邸宅でエルビスと一緒に暮らし始める。これまで経験したことのない華やかで魅惑的な世界に足を踏み入れたプリシラにとって、彼のそばでともに過ごし彼の色に染まることが全てだったが……。監督&脚本はソフィア・コッポラ。原作はプリシラプレスリーの『私のエルヴィス』。出演はケイリー・スピーニー(プリシラ)、ジェイコブ・エロルディ(エルヴィス)ほか。

 

 ウェス・アンダーソンソフィア・コッポラって私の中で同じ箱に入っているのですが、本作でソフィア・コッポラが一歩出てきてくれたというか、純粋に良いと思った。そりゃそもそも彼女の方が女性を主役にするし、かつ男性もよく描けているので好きな要素もある。ただ相変わらず主人公以外の周囲の人間の描き方が薄いし、人種や階級については相変わらず無頓着だ(どう考えても本作で一番魅力的なのは、エルヴィスの祖父と家事手伝いのアルバータだ)。人種やジェンダーの描き方を無視して、このストーリーが良いか悪いかを決めて、そこから「前より良い作品を作った」と評価されること自体、作家としてかなり甘やかせるけど(圧倒的にこういうのは白人男性の監督が多いけどね)。

 

 「これぞ作家性」というぐらいに過去作と類似する点が多い。満たされない女性、父と娘、孤独、センチメンタル、大きい家に小さい女性、共感してくれない周囲の人々、時代を超越した音楽センスなど、こんなに分かりやすく作家性を提供してくれる人いないよ。映画の教科書に載せるべきだよ。

 

 いつものソフィア・コッポラ作品と違って本作に嫌な感じが薄いのは(ファンの人がいたらごめんなさい)、実話ベースでかつ身内の話だからかな。確かニコラス・ケイジってリサ・プレスリーと結婚してたよね。これが完全にオリジナルだったら受け付けなかったけどね。ここ数年でアメリカで縁故主義が話題になっていたけど、そんな縁故主義の元祖的存在のソフィア・コッポラが身内に向けて、こういう映画を作ったのはけっこう面白く、ある種の縁故主義の中にいる人間のアンサーだと思う。ただ画面にシャネルの香水がドカーンと出てきたときはさすがに嫌味な気分になったけどね。

 

 バズ・ラーマンの『エルヴィス』の中でちょっとした触れられなかったプリシラの話をって感じで。ただ本作でプリシラが心の拠り所にしていたリサが去年お亡くなりになっているのを踏まえると少しやりきれない映画でもある。『エルヴィス』ではエルヴィスの私生活(女性関係)をだいぶマイルドに描いているぶん全体的にクリーンな映画だと思ったが、『プリシラ』ではプリシラの目線を通して、派手じゃないにしろ、エルヴィスという人間の欠点を描いている。少なくともエルヴィスはプリシラと出会う時から問題アリで、あの取り巻きがエルヴィスと引き合わせようとする一連の流れはグルーミングそのものだと思う(ちょっと松本人志を思い出した)。それに未成年のプリシラと付き合っているって現代の目線から見るとアウトだなって思うし。付き合ってからもハラスメントの連続で(もちろん愛を感じていた時間もあっただろうが)、プリシラはエルヴィスの好みに変化させられ、まるで人形だ。

 

 アメリカの理想カップルは実はこんな問題がありましたよ(特に男性の方が)、現代の目線で見るとこんなんですよと言っているようだ。アメリカというのはケネディ大統領とジャクリーン(もちろん歴代の大統領とその夫人カップル)、アンジェリーナ・ジョリーとブラット・ピット、みたいな有名カップルを讃えて、そしてその裏話を想像するのが大好きだ。2024年でどれだけジャクリーンがケネディに泣かされていたかをみんな知っているし、アンジーとブラピが離婚裁判をしているというのに、未だにアメリカ人は理想のカップルを欲しているし、讃えたいと思っている(最近だとテイラー・スウィフトがその役目を自ら買って出ている)。そのカップルを理想とする幻想を風刺しているのが『プリシラ』なのかもしれない。

 

 あとどうしても『ジャッキー ファーストレディ 最後の使命』『スペンサー ダイアナの決意』『ブロンド』など大きい部屋に女性が一人いて、それをロングショットで撮るみたいな映画の元祖って何ですかね。こないだ観たトッド・ヘインズの『S A F E』もそういう撮り方をしてたのですが、まさか『S A F E』じゃないよね。『サンセット大通り』じゃないかと思っているのですが。あと大きい部屋に女性が一人という映画はおのずと話が似てくるね。

 

 

『貴公子』

 

『貴公子』 (The Childe) [2023年韓国]


フィリピンで暮らす貧しい青年マルコは病気の母のため、地下格闘で日銭を稼いでいた。ある日、マルコはこれまで一度も会ったことのない韓国人の父が自分を捜していると聞き、韓国へ向けて旅立つ。マルコは飛行機の機内で、自らを「友達(チング)」と呼ぶ怪しい男「貴公子」と出会う。美しい顔立ちで不気味に笑う貴公子に恐怖を感じて逃げ出すマルコだったが、執拗に追われ徐々に追い詰められていく。監督はパク・フンジョン。出演はキム・ソンホ(貴公子)、カン・テジュ(マルコ)、キム・ガンウ(ハン)ほか。

 

 『THE WITCH/魔女』シリーズを監督しているパク・フンジョンということだけあって、話とかスタイルが似てる。森の中の一軒家で戦うとか、それこそ森の中での戦いとかドライブシーンとか似てる。話も"運命づけられた子"を殺しに来るというテーマも似てる。ただ『THE WITCH/魔女』はどこか超能力バトルみたいな側面があったが。本作ではそれと違って結構リアルなアクションだった。

 

 正直フィリピンでのシーン(40分~50分くらい)は本当に退屈で、それからマルコが韓国に行って、貴公子がマルコを殺そう(=守ろう)とするシーンも、観客とマルコはよく分からないうえに恐怖のシーンが連続するのでつまらない。ただマルコがなぜ韓国に来たのかを伝えられたシーンから徐々に面白くなるが、ここですでに女性時間が1時間超えているので、もっと早くマルコの正体を明かせず気だったんのでは。なんか長くてまったりとしていて、このシーンやたら長くない?と思うことが多かった。まあ男性を色っぽく撮りたいのは分かるんだけど。

 

 ラスト20分で貴公子の正体が明かされるのはとても面白くて、本当に同じ映画なのかと思うくらいトーンも画面も明るくなる。もうこのトーンでまるまる一本作れば良かったのにね、勿体無い(今年観た『ジェントルマン』もこんな感じだったが、韓国映画内の流行かも)。

 

 まあメッセージは面白くて、血の通ったきょうだいより(本当は違うけど)、よく分からない友達の方が良いでしょっていうオチでまあロマンチックな映画だ。「殺したい=守りたい」みたいな、ちょっと昔のサスペンスに出てくる同性愛的欲望(ステレオタイプだけど)を描いているようにも見えて、古典的な作品なのかもしれない。

 

『パリ・ブレスト~夢をかなえたスイーツ~』

 

『パリ・ブレスト~夢をかなえたスイーツ~』 (AA la belle etoile) [2023年フランス]

 

母親に育児放棄され、過酷な環境で暮らす少年ヤジッド。そんな彼にとって唯一の楽しみは、里親の家で団らんしながら食べる手作りスイーツで、いつしか自分も最高のパティシエになることを夢見るように。やがて児童養護施設で暮らし始めたヤジッドは、パリの高級レストランに見習いとして雇ってもらうチャンスを自らつかみ取る。田舎町エペルネから180キロ離れたパリへ通い、時には野宿もしながら必死に学び続けるヤジッド。偉大なパティシエたちに従事し、厳しくも愛のある先輩や心を許せる仲間に囲まれて充実した日々を送るが、嫉妬した同僚の策略によって仕事を失ってしまう。監督はセバスチャン・テュラール。出演はリアド・ベライシュ(ヤジッド)ほか。

 

 ヤジッドの職場の先輩として、日本人のサトミ(源利華)が出てくる。シェフとして厳しくもあるが、同じ移民のルーツがあるヤジッドに何かと世話を焼いてくれる、奥行きのある人物として描かれている。正直言うと、フランス映画にアジア系女性のまともな描写を期待していなかったので、驚いた。

 

 ヤジッドの実親が政府に頼れず人生が立ち行かなくなる移民女性として、どうしても息子に依存し里親に当たり散らしてしまうあたり非常にリアルだ。ただ本作は実親のケアもしっかり描いている。特に里親が実親をケアしている姿とかの支援をしっかり描いていると思う(同じくフランス映画の『1640日の家族』と類似している。2つとも母子映画だと思う。) フランスの子ども福祉は家族の形にこだわるんだなと。

 

 ヤジッドが実親に依存されて、何度もそれを突っぱねて、どこかで距離を取れて、何かしらの愛情を返せる(本作では手作りブレスト)のは、しっかり里親や先生たちに愛されて支えられた経験があるからだ。知らずにそれがしっかりヤジッドの力になっている(あんなに何度も職場を変えてもそこで頑張れるのはその力があるかららだ)。ケアがエンパワーメントに繋がることを非常に真摯に描いている作品だ。

 

 ラストの氷像でワシじゃなくて翼の生えた女性象を作ったのは非常に意味のあるシーンで、男性の象徴であるワシを否定している。そもそもヤジッドは全然マッチョじゃないというか。友達が「女は」みたいな話をすると意図的に話をそらしたりするし。ああいう会話を嘘でもしたくない人なのだろう(エンドロールでご本人の写真が出てきましたが、非常に優しそうな人だった)。ヤジッドは誰かと付き合いたいみたいなこともなさそうで、そこが非常に観やすいのも私が本作で感動した理由かもしれない。

 

 あとこういう移民とかの映画の主人公ってほとんど男性だし、行く先が良い悪い関係なく、成功しているパターンが多い。男性は家族の世話とか押し付けられないからだろうな。

 

午前十時の映画祭14『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』

 

午前十時の映画祭14『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』 (Indiana Jones and the Temple of Doom) [1984アメリカ]

 

前作より1年前の1935年。上海のナイトクラブでマフィアとトラブルになったインディは、クラブの歌姫ウィリーと現地の少年ショーティを連れて逃亡するが、飛行機が墜落しインドの山奥に不時着してしまう。寂れた村に辿り着いた彼らは、この村の子どもたちが邪教集団にさらわれ、村の秘宝「サンカラストーン」も奪われたことを知る。奪還を依頼されたインディたちは、邪教集団の根城であるパンコット宮殿へと向かう。監督はスティーブン・スピルバーグ。出演はハリソン・フォード(インディアナ・ジョーンズ)、ケイト・キャプショー(ウィリー)、キー・フォィ・クァン(ショート)ほか。

 

 219席ある会場に私を含め観客が6人ほど...初日でだよ...やっぱりTOHOが良くないんじゃないの。スティーブン・スピルバーグは本作があまり好きじゃないそうですが、私は大好きですよ。

 

 2作目だけど時系列としては『レイダース/失われたアーク≪聖櫃≫』より1年ほど前らしい。冒頭ですでにヌルハチ盗みをしていて、それで金を稼いでいるようで、「博物館に寄贈すべき」みたいなキャラクターアークどこにいったんだと思う。一方であのヌルハチって満州王国の初代皇帝らしいし、あれは日本軍から盗んできたんだろうね。その過程でショートと出会ったんだと考えると感慨深いものがあるな。

 

 『レイダース/失われたアーク≪聖櫃≫』と『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』と違ってストーリーが独立しており、「聖なる務め」(白人の救世主)としてのインディ・ジョーンズとして、かなり娯楽に寄った作品になっていてかなり面白い。『レイダース/失われたアーク≪聖櫃≫』よりエキゾチックで、大変罪な映画だけど面白い。宮殿の食事シーンなんて面白いけど酷いよね。ケイト・キャプショーとキー・フォイ・クァンのコメディリリーフな演技は最高だ。ただタギー教の儀式や支配を悪く描いて、ラストの子どもの解放シーンを感動にしているのを見てると、本作は本当に救世主の話なんだろう。

 

 それより『レイダース/失われたアーク≪聖櫃≫』のマリオンより女性の描き方が後退したなと感じる一方で、ケイト・キャプショー演じるウィリーが本作の笑える部分の大部分を担っているので、どう考えても彼女の功績が大きい。ただハードボイルドでかっこいいインディと圧倒的高感度のショートと比べると足手まといに見えて少し可哀そうな役だ。ケイト・キャプショー、確かスピルバーグ監督のパートナーですよね。

 

 タギーの儀式の気味悪さは大画面で観るとより感じる。あの煽る演出って今もインドの大作映画でよく見るけど、ああいう演出ってドイツのサイレント映画から影響を受けているのかな。少なくともスピルバーグ監督は『メトロポリス』みたいなサイレント映画を作ろうとしていたのは伝わる。ぜひ本作もサイレントで観直して欲しい。儀式のシーンなんてセリフ無しで観てもしっかり怖いと思う、それくらい巧みな演出。プロパガンダとか絶対作っちゃダメだよ。

 

 インディが闇落ちした時の気味悪さも相変わらずで、子どもの時このシーンで挫折して観るのをやめたっけな。それもハリソン・フォードの演技が上手いからだ。それにトロッコのシーンも面白いし、わざわざトロッコを作るとか情熱が凄い。あの流れも完璧で、トロッコを足で止める、足が熱くなって「水」って言う、そしたら大量の水が来る、っていう一連の流れが巧みすぎる。

 

 そう言えば『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』後の本作なので、やはり去年公開されたインディ・ジョーンズの新作にショート・ランドが出てこなかったの、だいぶ惜しい。今すぐ6作目を作ってショートにインディの帽子を継承させるべきだ。