@GB19940919’s diary

GB(https://twitter.com/GB19940919) (twitter→GB19940919)の映画感想雑記です。劇場で観た映画からWOWOWやサブスクで観た映画やドラマの感想です。

『5月の花嫁学校』

結婚しない自由をたたえるけど、恋愛しない自由はたたえない

 

f:id:GB19940919:20210529010240j:plain

 

『5月の花嫁学校』

 

1967年。フランスのアルザス地方にある花嫁学校、ヴァン・デル・ベック家政学校には今年も18人の少女たちが入学してきた。経営者である夫の突然の死をきっかけに、校長のポーレットは学校が破産寸前であることを知る。ポートレットが、なんとか窮地から抜け出そうと奔走する中、パリで5月革命が勃発する。抗議運動がフランス全土に広がってゆくのを目の当たりにしたポーレットや生徒たちは、これまでの自分たちの考えに疑問を抱き始め、ある行動に出ることを決意する。

 

 普通こういう学校がテーマの作品は生徒目線の映画が多い中でこの映画は先生たちと生徒たち両方に視点を置いて作っているが、一人一人の描写がえらく雑だ。一番雑だと思うのは、生徒の一人が唐突に自殺したり、先生や生徒たちが全く社会について会話してないし、社会について知ろうというシーンも差し込まないのに、パリに行くってだけで革命に参加しようというのはかなり雑だ。だから一番この映画の肝である最後のミュージカルシーンが陳腐になってしまうのだ。

 

 あと家政学校の校長のポーレットが実は家政学校で教えているような夫婦ではなくとんでもないダメ夫だと判明しさらに学校が破綻寸前の状態になってしまい、自分が家政学校で教えている恋愛を否定し結婚を美化する良妻賢母の価値観に疑問を投げかけるようになるきっかけが、昔の彼氏にあって恋愛(厳密にいうと不倫である)するようになったからという理由がまず古い。これはmale gazeの失敗だと思う。しかもネットリしたセックス・シーンまで投入して描いているもんだから、映画のトーンがぼんやりして本当に陳腐な展開だと思う。しかもその元恋人のおかげでポーレットが個人でも口座を開けて学校の経営も軌道に乗るというのはあまりもクソだ。結局白馬の王子様に頼ってる展開はあまりにもお粗末だ。そもそもポーレットが女性一人でも口座を開けるようになったのは男のおかげではなく、自由と権利のために戦ったフェミニストたちのおかげだ。しかしこの映画はそこは無視して(というかこの映画は社会を無視している)、男のおかげで家政学校が成り立っている展開にしてしまったのだ。しかもこのヘテロカップルのために差をつけるかのように生徒二人の同性愛を描写するのだが、これもかなり雑。生徒の一人が夜抜け出して男とセックスする描写だってあるのに、同性愛だけはプロトニックな映画えがき方なのだ。

 

 ポーレットやこの映画は結婚しない自由はたたえるが、恋愛しない自由はたたえない。2021年に公開される60年代のフェミニズム運動の影響を描く作品としては、かなり陳腐な映画だった。

 

 

『クルエラ』

そこは血統設定じゃないといけないのですか?

 

f:id:GB19940919:20210527194009j:plain

 

『クルエラ』(Cruella)

 

 

1970年代のロンドンを舞台に、クルエラ・ド・ヴィルの若き日の姿を描く。監督は『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』のクレイグ・ガレスピーで、出演はエマ・ストーンエマ・トンプソンマーク・ストロングなど。

 

 『アイ,トーニャ』の監督らしく非常にブラック・ユーモアを踏まえながら1970年代のヒットソングにのせながら大変テンポよく進んでいく脚本はよく出来ていると思う。2時間以上の上映時間も全く気にならない。もちろん脚本にアラがあるが、それでもユーモアに溢れていて、美術や特に衣装は本当に凄い。同じくヴィランを描いた作品『ジョーカー』と『クルエラ』の予告編が公開されたときにかなり似ていると言われていたが、全然『クルエラ』の方がよっぽどよく出来ているし、ちゃんとユーモアに振り切っている。ただし両作品ともチャップリン作曲の"Smile"を使ってこの世の中狂ってるよな的な演出はダサいです。おそらく『クルエラ』がこういう雰囲気の映画になったのはどう考えても『101』『102』でクルエラ・ド・ビルをユーモアに演じたグレン・クローズの功績のおかげだ。改めて彼女の凄さを感じました。

 

 

 しかしどこまで言っても所詮ディズニーだなと思ってのは、クルエラが復讐する経緯で自らの血統を知ることになるのだが、正直「また血統かよ」と思ってしまった。もっと他に理由を考えることができなかったのかと思う。ディズニーはずっと父性の失敗を子どもたちが償う話を作り続けているが、最近はそれが母性に対象を変えたのかなと思う。どこまで言っても家族から離れられないのはディズニーだ。あとクルエラってどう考えてもクィアっぽいのですが(ディズニーのヴィランはみんなどこかクィアっぽい)、だからこそロンドンのアウトサイダーたちを仲間に引き連れていくのですが、それが黒人とクィアな男性ということで正直白人女性を支えるトークンみたいに見えてしまうのは指摘しておく。クィアな男性を出演させるけど、同性愛は描かない。これもいつものディズニーだけど。

 

 犬の皮をはいで洋服を作ってしまうという救いのないヴィランをこんなにもユーモラスかつ愛情深く描いているが映画の冒頭で気になる箇所があった。ホテルにエステラたちが盗みにはいるのだが、そこで泥棒の一人が日本人が泊まっていた部屋から小さいテレビを盗みつつ「こんなにテレビが小さいぞ(笑)日本人が寝ていた(笑)」と笑いながらジョークを言っていたが、テレビはホテルのものだが、この流れであの発言だとおそらくテレビの小ささと日本人の小ささを比べながら揶揄したジョークだ。アジア系への差別的なジョークだ。あのディズニーがよくこんなジョークにOK出したな。ダメだと思う。

『ビーチ・バム まじめに不真面目』

不真面目するにも金が要りよう

 

f:id:GB19940919:20210524225936p:plain

 

『ビーチ・バム まじめに不真面目』(The Beahbum)

 

フロリダ州マイアミ。ムーンドッグは自由奔放かつ底抜けに明るい性格の詩人だった。デビュー作を出して以降ほとんど詩を書いていなかったこともあり、世間では既に過去の人となっていたが、ムーンドッグはそれを気にも留めていなかった。と言うのも、資産家の妻、ミニーのお陰で家計を心配せずとも暮らせる状況にあったからである。ムーンドッグは毎夜パーティーに繰り出してはドラッグと酒を堪能し、視界に入った女性を片っ端から口説くという気ままな生活を送っていた。

ところが、そんなある日、ミニーが交通事故で亡くなってしまった。遺産の半分はムーンドッグに渡るはずだったが、それに待ったをかけた人物がいた。それはムーンドッグとミニーの娘、ヘザーであった。ヘザーは自堕落な生活を送る父親を苦々しく思っており、これを機に更生させるべく「パパが真っ当な生活を送れるようになるまで、遺産は私が管理します」と言った。ここに至り、ムーンドッグは初めて大人としての自覚を持つことを余儀なくされたが、今までの生活がそう簡単に変えられるわけはなかった。

 

 映画の内容を言いえて妙なサブタイトル"まじめに不真面目"という通り、ムーンドッグは本当にダメ男である(笑)本当に詩の才能があるのかと思ってしまう。(あの詩でピューリツァー賞を果たして受賞できるのか...)

 

 ということで不真面目して酒やら大麻やら女やらしたいことするのもまずはお金が必要なのだ。そのためだけにムーンドッグは詩をかくという労働をするのだが...やはりどの世界においても金が要りようである(笑)だからこそそれをあざ笑うかのように最後は金を燃やす。ムーンドッグ、テキトーに生きているようでしっかりしているのだ。

 

 映画は全体的に面白かったが、ムーンドッグがお金を得るためにフリッカーと暴漢みたいなことをした描写はいらないと思う。暴力だけには訴えないのがムーンドッグの生き方だと思うし、暴力に頼ると登場人物の人間性がぶれて映画的にも良くない。あとアジア系女性の描き方もネイリストとバーで白人男性を性的に誘惑しているだけの役でかなりステレオタイプであった。

『ファーザー』

光や時間を受け入れることが始まり

 

f:id:GB19940919:20210524222944j:plain

 

『ファーザー』(The Father)

 

アンは80歳になった父親、アンソニー認知症の兆候が見え始めたのを心配していた。アンソニーにヘルパーを付けようとしたアンだったが、気難しいアンソニーは難癖を付けてはヘルパーを追い出す始末だった。しかし、アンソニーの病状は悪化の一途を辿り、記憶が失われていくだけではなく、自らが置かれた状況すら把握できなくなっていった。困惑するばかりのアンソニーは苛立ちを募らせ、アンに当たることもあった。アンはそんな父親を懸命に支えていたが、気力と体力は消耗するばかりであった。

 

 舞台が原作であるため、同じ場面での構成が多い映画であるが、自然や太陽の動きのショットを随所に入れることで映画と舞台の差をうまく表現できている。また主演のアンソニー・ホプキンスとオリビア・コールマンをはじめ出演している俳優はみな素晴らしかった。また認知症追体験するような脚本と演出で正直観ているのが辛い。(薄気味悪くなるくらい)

 

 この映画はおそらく、映画の終わりがアンソニーの人生の始まりである。認知症であることを認め、医者がアンソニーを無条件で受け入れて、そしてアンソニーが太陽の光を受け入れる。(=過去回帰ではなく時間が進んでいくという意味。アンソニーが過去を回帰したり認知症の症状が出たりしていたのはほとんど夕方だったし、アンソニーは腕時計がどこにあるのかを気にしており、また今何時であるかをすごく気にしている。今何時であるかを気にしているのは、時間を進んでいるのを受け入れているというよりかは、限りなく過去に執着しているからだ) 

 

 おそらくこれが認知症の人を受け入れるプロセスとして正しいのだと思う。そしてこのプロセスを医者や施設が請け負うというラストに、ものすごく現代的だと思う。ここに家族が入り込む余地はあまりない。そういう意味では『旅立つ息子へ』に似ている。最近は施設に入ることを肯定的に描く作品が多くなった印象がある。まあなんでも家族で解決するのは純粋に限界があるからね。

 

 なおこの映画は男性中心的でセリフが割り当てられているのは全員白人の役者だったことは指摘しておきたい。

『ジェントルマン』

こういう古臭い価値観、ガイ・リッチー嫌いじゃなかったっけ?

 

f:id:GB19940919:20210524174820j:plain

 

『ジェントルメン』(The Gentlemen)

 

ビッグ・デイブはタブロイド紙の編集者だった。そんなある日、パーティーに参加したデイヴは麻薬業界の大物、ミッキー・ピアソンに挨拶をしたが、ミッキーはデイヴを無視した。腹を立てたデイヴは探偵(フレッチャー)を雇い、ミッキーとプレスフィールド卿の関係を調査させることにした。彼の娘、ローラはヘロインに依存しており、ミッキーと何らかの繋がりがあるのではないかと疑ったのである。フレッチャーは調査結果をまとめ、それをピアソンの右腕として知られるレイモンドに突き付け、2000万ポンドの支払いを要求した。

ストーリーは過去に遡る。ミッキーはアメリカの貧困家庭で生まれ育ったが、勉学に秀でていたために、奨学金を得てオックスフォード大学に進学した。在学中、ミッキーは裕福な家に生まれ育った学生たちにマリファナを売るビジネスを始めた。ビジネスにのめり込んだミッキーは大学を退学し、そのまま裏社会でのし上がっていった。ミッキーは自分が一代で築き上げたビジネスをアメリカの富豪、マシュー・バーガーに4億ポンドで売却しようとしていた。ここ最近、ミッキーは殺伐とした裏社会に嫌気がさしてきており、引退して妻のロザリンドと一緒に平穏に暮らしたがっていたのである。ミッキーはバーガーを大麻栽培施設の一つに案内した。その施設は田舎の名士たちが所有する土地の地下にあった。名士たちは豪邸の維持費用を自力で工面できなくなり、やむなくミッキーに土地を貸したのだった。ほどなくして、ミッキーは中国のギャング(ジョージ卿とその部下ドライ・アイ)から「事業を買収したい」というオファーを受けたが、ミッキーはそれを断った。その後、アマチュアの格闘技集団、トドラーズがミッキーの所有する大麻栽培施設を襲撃するという事件が発生した。トドラーズは施設の警備員を打ち負かし、施設からマリファナを強奪した。しかも、彼らはその様子を録画しており、その映像にラップを合わせてネット上にアップロードした。トドラーズのコーチはその一件を知るや否や、直ちにビデオを削除するよう命じた。コーチはミッキーからの報復を恐れたのである。

ミッキーが十分に育ったマリファナの搬出を始めた頃、プレスフィールド卿から「ヘロイン仲間とつるんでいる娘を連れ帰って欲しい」という依頼を受けた。ミッキーの命令で、レイモンドは部下を引き連れてローラの元に急行したが、その際、彼女のヘロイン仲間たちが掴みかかってきた。揉み合いの最中、ヘロイン仲間の一人(アスラン)が窓から転落死してしまった。ほどなくして、ローラもオーバードーズで亡くなった。しばらくして、コーチがレイモンドの元を訪れ、施設を襲撃したことを謝罪すると共に、お詫びとして組織の仕事を引き受けたいと申し出た。その後、コーチはトドラーズに施設の場所を教えたフック(ドライ・アイの部下)を捕まえて詳細を聞き出そうとしたが、フックは逃走を試み、その際に運悪く死んでしまった。その頃、ミッキーはジョージ卿を脅しつけていた。ジョージ卿はオファーを断られた腹いせに、ミッキーが保有するヘロイン工場を襲撃したのだった。ジョージ卿は任務に失敗したドライ・アイを始末しようとしたが、逆に殺されてしまった。そして、ギャングはドライ・アイの支配下に置かれることとなった。

こうして、ミッキーの麻薬ビジネスをめぐる闘争はますます混迷していくのだった。

 

 脚本がスタイリッシュでスムーズに進んでいくので、最初は退屈だがだんだん面白くなっていく。これはガイ・リッチー監督が以前より上手になったと思う。それに加え豪華な役者たちが登場するのでとてもよく出来た映画だと思う。

 

 しかしこの映画における価値観は今まで監督自身が"ダサい"と思っていたものなのではないかと思う。例えばストリートにいる若者があまり活躍せず、権威がある男に結局ついていく感じは、監督は保守的になったのかなと思う。まあそもそもこの監督は良いところのお坊ちゃんがアウトロー気取ってるだけな人なので、戻るところに戻ったなという印象。

 

 あと主人公は冷静でかつあまり暴力に頼らない(というか暴力系は部下にやらせる)のだが、唯一殺人を犯す動機が妻がレイプされそうになったからという理由で、脚本としてなんかダサい。あとアジア系が出てくるが、正直敵役ではなく味方の役で出すべきだと思う。ひどい殺され方するし、昔のハリウッド映画の悪いアジア系の描き方をそのまま模倣したような感じで本当にダサい。この監督はとにかく白人の男にしか興味ないらしい。

『グランパ・ウォーズ おじいちゃんと僕の宣戦布告』

"戦争"についての罪を描いている

 

f:id:GB19940919:20210423185248j:plain

 

『グランパ・ウォーズ おじいちゃんと僕の宣戦布告』(The War with Grandpa)

 

妻を亡くしたこともあって、エドは娘夫婦(サリーとアーサー)と同居することにした。当面の間、エドは孫のピーターの部屋で暮らすことになったが、ピーターは「おじいちゃんに自分だけの部屋を奪われた」と不満を募らせていった。ほどなくして、我慢の限界に達したピーターはエドを追い出すべく様々な悪戯を仕掛けたが、エドは意地になって部屋に居座ろうとした。そして、ピーターの悪戯はどんどんエスカレートしていき、ついには大騒動に発展してしまう。

 

 まあ笑える映画であったし役者も気の抜けたコメディ演技は良かったが、やはりこの映画を作った監督はかなり道徳心を持っている人でないかと思う。まず祖父が孫に戦争について実際の戦争がいかに人間性を奪うのか力説するのだが、それが最後にちゃんと祖父と孫にのしかかるのが非常に良い。途中は少し笑えて、ちょっとやりすぎじゃないかと思うので、最後に戦争という言葉が二人にのしかかるしシーンは非常に意味がある。

 

 最後にこの映画はラストにコメディ映画お決まりのNGシーン集が流れて、少し懐かしい気分になる。またコメディ映画でラストにNGシーン集を流すようになってくれないかな。

 

『約束の宇宙』

女性が労働していくうえで出会う苦難を表している

 

f:id:GB19940919:20210419030723p:plain

 

『約束の宇宙』

 

 オリジナル脚本ではあるが、おそらく歴代の女性宇宙飛行士をモデルにしている。監督はアリス・ウィンクールで音楽は坂本龍一である。欧州宇宙機関JAXAが製作に協力している。

 

 ひとりの女性宇宙飛行士が宇宙に行くまでがテーマであるため、これは宇宙がテーマと言うよりかは女性が労働するうえで遭遇する受難や苦労をテーマにしている。まず宇宙に行くと決まってから子どもの世話をどうするかについて悩むのだが、まず父親だった子どもの世話どうしようかなんてまず悩まないだろう。映画では別居している元夫が世話してくれることになったが、それでもかなり説得に苦労しているようだった。次に訓練が始まってから、生理について問われる。(この視点はめちゃくちゃ女性監督ならではだ) 生理道具を宇宙に持っていくのに自分の事物を減らされるなんて、この映画を観なければ知らなかったという人は多いのではないか。次に超めんどくさい男性上司が出てくる。そいつは勝手に主人公の才能をマンスプレイニングして過小評価してくる。そんなめんどくさい奴に自分の能力を評価していただき、こちらから積極的にコミュニケーションをとるなんてめんどくさすぎだろう。まずこの男性上司は上司やチームメイトとしての仕事を放棄している。あんな奴でひょかされるなんて下駄を履かされている男性上司だ。こういうやつはどの職場にもいるのだ。そういう男性上司と女性は労働するうえで戦っていくのだ。この映画は本当に女性の労働環境を丁寧に描き告発する映画だ。

 

 映画としても全体的に非常によく出来ている。特に主人公と娘が施設から内緒で抜け出して宇宙船を見に行くシーンはかなり映画的であるが、非常に感動的なシーンだ。主人公が途中から宇宙のプロジェクトに参加するのはロン・ハワード監督の『アポロ13』に似ており、宇宙を詩のように表現しているのはロバート・ゼメキス監督の『コンタクト』を彷彿させるし、ぜひ90年代映画オタクも見てほしいと思う。