@GB19940919’s diary

GB(https://twitter.com/GB19940919) (twitter→GB19940919)の映画感想雑記です。劇場で観た映画からWOWOWやサブスクで観た映画やドラマの感想です。

『裸足になって』

 

『裸足になって』(Houria) [2022年フランス・アルジェリア]

 

内戦の傷跡が残る北アフリカイスラム国家アルジェリア。バレエダンサーを夢見る少女フーリアは、男に階段から突き落とされて大ケガを負い、踊ることも声を出すこともできなくなってしまう。失意の底にいた彼女がリハビリ施設で出会ったのは、それぞれ心に傷を抱えるろう者の女性たちだった。フーリアは彼女たちにダンスを教えることで、生きる情熱を取り戻していく。監督と脚本はムニア・メドゥール。出演はリナ・クードリ(フーリア)ほか。

 

 トロイ・コッツアーが製作総指揮を受けているそうだが、彼はアメリカだけじゃなく他の国の映画もプロデュースしているのか。『パピチャ 未来へのランウェイ』と同じ監督と主演で新作である。全体的にとても好きな映画であった。

 

 冒頭の残酷に映る闘羊のシーンは、夜にだけ行われる命を軽視する男達の世界を表現していたと思うが、そこに女性で一人でやって来るフーリアは当然そこから排除される存在である。フーリアとその片親である母親は男性からの庇護が無い女性だ。職業がダンサーであるのも警察や周囲の男性から疎まれる存在で二重に周縁化されている存在だ。抑圧的な政府へのテロを起こした人間が英雄と扱われる国で、その暴力の被害を受けた女性や子供たちの存在(病院でフーリアが出会った女性たちはソレだろう)を可視化しようとこの映画は試みていた。

 

 本作の中で非常に重要な意味を持ち続けていたのが手である。手は手話や表現以外にもどれだけコミュニケーション以上の物事を伝えるのか、相手の涙をぬぐったり、背中をさすったり、触れ合ったりして共感と信頼を伝えることができるのだ。フーリアはその手が持つ力を与えられ、与える立場にもなっていた。

 

 本作ラストの友達への追悼ダンスは女性たちだけで執り行われ、夜に無観客で行われていたが、追悼以上の意味があっただろう。言葉以上の力を取り戻し、奪われた自由や表現や夜を取り戻しているようだった。