@GB19940919’s diary

GB(https://twitter.com/GB19940919) (twitter→GB19940919)の映画感想雑記です。劇場で観た映画からWOWOWやサブスクで観た映画やドラマの感想です。

『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』

 

ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』(I WANNA DANCE WITH SOMEBODY)

 

 美しく力強い歌声で世界を魅了したアメリカの人気歌手ホイットニー・ヒューストンの半生を描いた伝記映画。

 

 パンフレット販売無しで悲しいが、本国と公開するタイミングが同じだからなのかな。監督は黒人女性監督のケイシー・レモンズ。ホイットニー・ヒューストンを好演するのはナオミ・アッキーで、他には大物プロデューサーであるクライブ・デイビススタンリー・トゥッチが演じている(またゲイの役だ)。

 

 『ボヘミアン・ラプソディ』の脚本家とスタッフが製作に絡んでいるためか、ホイットニーのヒット曲にのせて疾走感溢れる展開が続き非常に観ていて楽しいが、ホイットニーが麻薬に依存している姿やキャリア中期から晩年までの低迷期や死ぬ直前までが詳しく描かれているのでファンである私は観ていて非常に辛い気持ちにもなった。(ホイットニーの死も辛いが、映画ではホイットニーにとって尊い存在であった娘さんも早くに亡くなってしまったので、娘さんが出てくるのを観るのも辛い。)  

 

 退屈な映画ではないが、スター特有の重圧など観客は共感しづらく、そういうのを映画で表現するのは難しいなとも思った。それでもホイットニーの人生や音楽を祝福する映画であったので全体的に良かったと思う。

 

 映画は1994年のAmerican Music Awardsからのスタート。グラミーとは違いアメリカのお祭りと言われる音楽祭を取り上げることで、ホイットニーのアメリカの恋人感を出したかったのだろうか。このアメリカの恋人としてのホイットニーはこの映画で何度も言及される。「愛とは続ける努力も必要」と入り本編にはいる。

 

 物語は1983年ニュージャージー州の教会でホイットニーが歌うところから始まる。母親に「神から与えられた才能は正しく使うべき」と言われるが、本人は「私は歌うだけ」と返す。このセリフが映画を通して随所に出てくる。ホイットニーの歌への純粋な情熱と愛を表現している。(ちなみに歌姫と母親の関係は大切で、ここをしっかり描いており、監督はホイットニーを始め歌姫の人生やキャリアをしっかりと調べた人だなと思う。)

 

 両親の不和がホイットニーの人生と愛と家庭について影響を与える。(くしくもなりたくない姿を追随してしまうが。) ホイットニーのロビンへの愛と同居していた過去とキャリア初期から中期まで支えていた関係をしっかり描く。ホイットニーのバイセクシャルについてしっかり描いている。ロビン以外に付き合っている女性は描かれていない(おそらくホイットニーの最初で最後の女性なのだろう)、このホイットニーとクィアの人々(ほとんど場合仕事仲間でもあった)との連帯はこの映画の重要なモチーフだ。もちろん歌姫と呼ばれている人々とクィアのコミュニティとの関係は相互関係にあったので描かないという選択肢はなかったと思う。この辺は同じ伝記映画でクィアのファンが多かったジュディ・ガーランドの伝記映画と似ている。

 

 プロデューサーに見いだされレコード契約し、"How Will I Know""I Want Dance With Somebody"などのヒット曲を連発しだす。"I Want Dance With Somebody"でのライブシーンが差し込まれるが、このシーンのナオミのダンスがホイットニーのダンスに非常に似ていて面白かった。ナオミは歌もしっかり歌っており、ここも非常に感動した。

 

 ヒットを連発するにつれてホイットニーへの反発も生まれていく。その内容の多くが「黒人らしくない」「白人向け」とかである。ただしこの批判はあんまり正しくないというか、現在の感覚で見たら的外れな批判である。この手の批判はおそらくホイットニーの音楽への批判というより、自分で曲を書いておらず提供された曲を歌う歌姫への批判だと思う。この90年代はそういう歌姫がたくさん生まれた年でもあるし、そういうシーンへの揶揄を一気に引き受けてしまったのがヒット連発していたホイットニーだったのかなと思う。映画でもそんな批判に「私は歌うだけ」と返していたが、あれこそ歌姫とシンガーソングライターとの違いなのかなと思うが、逆に黒人女性のシンガーソングライターを想像しずらい時代でもあったなと思う。

 

 『ボディガード』の撮影秘話や"I Will Always Love You"のカバーが生まれる経緯や、南アフリカでのコンサート、そしてかの有名なスーパーボウルでの国歌斉唱なども描かれる。ちなみにスーパーボウルでの国歌斉唱の場面は少しやりすぎな演出だと思ったが、きっとあの演出もホイットニーのアメリカの恋人感を表現したかったのだと思う。

 

 またこの映画で一番辛いのがホイットニーを取り巻く男性たちだ。まず父親はホイットニーの稼ぎを未曾有に使い果たし、お金が無くなったら「またツアーに出ろ」とホイットニーに言う。ツアーはお金になるが、ホイットニー自身にはかなり負担だ。正直ホイットニーの死因に至るまでの原因に確実にこのツアー疲れからくる疲労もあったと思う。あの父親はホイットニーを間接的に死に追いやっていたと思うし正直許されないだろう。それでも一番辛いのはあんな野郎でもホイットニーの父親であり、何かあるたびに父親であることを強調してホイットニーを何度も抑え込んでいた事実だ。これは大変つらく、ファミリービジネスの問題だと思う。もうちょっと周りの人間が父親から引き離してあげるべきだったなと思う。父親がダメすぎて、他の映画では悪い風に描かれてがちなレコード会社のスタッフやプロデューサーのほうが良く見えるという珍しい感じだ。実際良い人だったのだろう。そしてもう一人ホイットニーの夫であるボビー・ブラウンだ。もう本当に嫌なDV野郎だ。映画ではまだご存命なこともあってか少しマイルドに描かれていたが、ボビー・ブラウンもかなり実際は嫌な奴だ。

 

 このホイットニーの周りにいたしょうもない男たちと比べて、ホイットニーの周りにいたクィアの人々(ロビン、クライブ)は時に厳しいことも言うが仲間としても仕事仲間としてもしっかりしていた。この両サイドの人々を比べることで、ホイットニーには本当はこういう人たちの助けが必要だったのだ観客に訴えてきているようだった。その証拠に映画でラストに歌った"I Love You Porgy"がそれを表現していたと思う。