@GB19940919’s diary

GB(https://twitter.com/GB19940919) (twitter→GB19940919)の映画感想雑記です。劇場で観た映画からWOWOWやサブスクで観た映画やドラマの感想です。

『セイント・フランシス』

 

『セイント・フランシス』(Saint Frances)

大学を中退し、レストランの給仕として働きながら夏の子守りの短期仕事を必死に探す34歳の独身女性ブリジット。子守りを任された6歳の少女フランシスやその両親であるレズビアンカップルとの出会いを通し、彼女の冴えない人生に少しずつ変化が訪れる。

 

 まず生理、避妊、中絶などの題材をユーモアを交えて描いたり、34歳の若くもないが年寄りでもない微妙な年齢の女性の不器用な生き方を大変リアルにかつ素晴らしく描かれた意欲作だ。主演のブリジットを演じたケリー・オサリバンが脚本を担当している。また監督は実生活でもケリーのパートナーであるアレックス・トンプソンである。

 

 この主演の女性が脚本も担当し、それを頼まれて監督するのがパートナーの男性という映画で、同じく『フランシス・ハ』(グレタ・ガーウィグ自身が主演と脚本を担当)を思い出させるが、2つの作品とも愛すべき不器用女性映画だ。と調べてみるとケリーがグレタからの影響を公言していた。ここでグレタは同世代とその下の世代にもうすでに影響を与えている監督なのだと知って大変嬉しいし、やはりグレタは将来もっとさらに大物になると思う。あと『セイント・フランシス』も『レディ・バード』も根底にカソリックのテーマがあったのも特筆すべきだろう。

 

 ブリジットは大変不器用で避妊法にもそれが表れていたり、男性に対してもちょっと冷めているというか、好きになる相手が自分より歳が上か下かである。意図的に同じ年齢の男性との交際を避けている気がした。ここが大変リアルだと思う。ブリジットは大学中退で仕事はレストランの給仕係でたいへん重労働なのに給与が大変安い。またナニーであることを同級生に隠していたりするので、おそらく自分のしている仕事を隠していたいと思う性格だ。(本人が隠したいと思うかどうか別として、ブリジットがやられたナニーについての職業差別は許されるものじゃない) それがゆえに同じ年齢の男性とは自分の仕事と相手の仕事のことで比べてしまうので、同じ年の男性とは付き合うのに気が引けてしまうのではないか?それに比べると自分より歳が上下でも離れていたほうが、仕事のことで比べる必要がないので付き合いやすいんだと思う。ここが大変リアルだし、この行動に私自身大変身に詰めされた。というか私が年が離れたカップルが映画に出てきたりすると、「うわっ」と思うのにどこか「いいな」と思ったのは、まさに私自身が仕事の内容で相手の男性と比べてしまっていたからだと判明した...すごい映画だ。私にすごい客観性を与えてくれた。(ちなみにこの客観性はあとでまた話します) ありがとうケリー・オサリバン。

 

 この隠していたいという気持ちがかなりブリジットの性格に影響を与えていて、それが顕著にでたのが中絶をしようとしたときにその妊娠させた男に別に病院についてこなくていいよというシーンだと思う。まあ中絶は女性自身が決めることなのでいちいち男にお伺いたてる必要ないし、病院に連れ添うのも連れ添わないのも女性が決めたほうがいいだろう。でもおそらく病院に付いていくよという男性は結構少ないのではないかなと思う。(アメリカでは普通なのかもしれないけど、日本だと珍しい) と男から優しい言葉をかけられたり周囲からも優しい言葉をかけられるも、拒否してしまうのは、前述した自分のことは隠したい、一人で抱え込んでしまう性格からだろう。それがブリジットの強さでもあり、弱さでもある。とても深い人物描写だ。

 

 この性格に難があったり自分を変えたいというブリジットに客観性を与えてくれたのが、フランシスとその両親であるレズビアンカップルのマヤとアニーだ。まずアニーは自分の中に中絶のスティグマを抱えて中絶の後遺症みたいな症状に見舞われていたブリジットに普通にまず病院に行くように勧める。この辺はブリジットが思っている以上に中絶は普遍的なことなのだと認識する場面である。次にマヤが公園でマミーシェイミングを受けた時にブリジットが思わず反論してしまうシーンで、ブリジット含め私や多くの人はあのシーンでブリジットのようにあまり褒められないやり方で何なら汚い言葉で反論してしまう。(というか実際は反論できなくても、反論してやりたいと思うはずだし、映画やドラマではスカッと反論している場面を観たいものだ) しかしマヤは怒らず冷静に相手をなだめる。しかし自分のわが子への愛は否定せず、それだけは相手に受け入れてもらいたい理解してもらいたいという意見を冷静に話して、それで相手に納得してもらうことができていた。あの場面はブリジットがマヤに(もしくはマヤがブリジットのために)の代わりにカッコよく反論するより、フランシスをはじめとした子ども達の前で大人が取り乱して喧嘩するよりかははるかにマヤのように冷静に自分の考えを相手に伝えるという行為が正しいのだ。この客観性こそブリジットに必要なものだっただろうし、何よりこの映画を観ながらブリジットに共感する私はじめとする観客に必要なものであるし、また大人に求められる態度だ。また子育てに疲弊しておりカップルとしても関係が微妙になってしまったマヤとアニーに対して客観性を与えてくれたのがブリジットだったりするのだ。ここは人間関係が持ちつ持たれつつであることを教えてくれるし、一人で悩みを抱え込むのはよくないことを教えてくれる。また映画としては強くシスターフッドを感じさせる場面だ。

 

 そしてこの客観性こそ、「私」の物語を映画化するときにクリエイターがもたいないといけない素質でもあると思う。「私」ばかりに集中すると観客を取り残してしまうからだ。

 

 また個人的に映画の題材として、全く異なる二人がある出来事をきっかけに出会い、別れるも自分の人生に影響を与えてくれた話が私は好きなので、この映画は私の好みのど真ん中をついてきた。『カモンカモン』が好きだった人はぜひ観てほしいと思う。