@GB19940919’s diary

GB(https://twitter.com/GB19940919) (twitter→GB19940919)の映画感想雑記です。劇場で観た映画からWOWOWやサブスクで観た映画やドラマの感想です。

『ワン・セカンド 永遠の24フレーム』

 

『ワン・セカンド 永遠の24フレーム』

 

1969年、文化大革命下の激動の中国。造反派に抵抗したことで強制労働所送りになった男は、妻に愛想を尽かされ離婚となり、最愛の娘とも親子の縁を切られてしまう。数年後、「22号」という映画の本編前に流れるニュースフィルムに娘の姿が1秒だけ映っているとの手紙を受け取った男は、娘の姿をひと目見たいという思いから強制労働所を脱走し、逃亡者となりながらフィルムを探し続ける。男は「22号」が上映される小さな村の映画館を目指すが、ある子どもが映画館に運ばれるフィルムの缶を盗みだすところを目撃する。フィルムを盗んだその子どもは、孤児の少女リウだった。

 

 まず私が無知であるがゆえに当時の中国の時代背景を理解できなかったので登場人物の会話や背景が分からないし、そのことについての説明もないし、特別大きなストーリー展開がある映画じゃないし、ギャグも感動も正直ほぼないのだが、あるのだとしたら映画への愛だと思う。監督は中国版『ニュー・シネマ・パラダイス』を目指したのかな。

 

 村で起こった出来事に村のみんなで対処するみたいなイデオロギーみたいな雰囲気があって少しいただけないし、メインの登場人物の逃亡者の男性(名前を忘れた)と孤児のリウの関係は都合が良すぎるのだが、それでも村のみんなで映画のフィルムを直したりするシーンは興味深かった。また所謂当時のフィルム上映の様子が細部にまで描かれているのでそれも良かった。映画が最大にして唯一の大衆文化だった時代の映画である。コロナで映画自体の存在が危ぶまれた今だからこそ公開する意味はあるだろう。

 

『ヤクザと家族 The Family』WOWOW

『ヤクザと家族 The Family』

 

『新聞記者』の藤井道人が監督。1999年。不良少年の賢治は偶然からヤクザである柴咲組の組長、柴咲と出会い、その子分となる。2005年、柴咲組で出世した賢治だが、組は敵対する組織、侠葉会との抗争が激化し、賢治は自分の家族のようになった組を守ろうと決意する。2019年、懲役を終えて刑務所から出所した賢治は、自分の組の存続が危ういことに衝撃を受ける。また14年前に好意を寄せたホステスの由香と再会するが、彼女の娘の父親が自分だと知る。

 

 映画は賢治がヤクザの組長に認められ子分になり、ある出来事がきっかけに殺人を犯し刑務所に入る。そこから14年の刑期を終え出所してきたら、ヤクザを取り巻く周辺があまりにも変化しており、それに戸惑う賢治とその仲間と家族を描いている。

 

 というかこの映画のメインはヤクザとしてのしあがっていく賢治ではなく、刑期を終えた後の賢治がいかに周りを破滅へと導いていくかが主題になっている。そして現代ではヤクザより警察の方が力を持っておりヤクザの活動が制限されており、その苦労をこの映画では描いていた。これは監督の前作である『新聞記者』でもジャーナリズムよりより強大な権力があることを描いていたが、本作でもヤクザよりさらに強大な権力があることを皮肉に描いていた。

 

 また本作の特徴はヤクザからカタギになっても生きていくのがいかに困難であるのかを描いている。賢治の恋人である由香とその娘が賢治がヤクザ上がりであるのが知れると職場や学校を追い出されその怒りをしっかりと賢治にぶつけるのだが、これは今までのヤクザ映画へのアンチテーゼというか、今までヤクザの周りいる本当の家族たちが踏みにじられてきた苦労などをこの映画ではしっかりと賢治たちヤクザにぶつけている。賢治たちはじめ男性がこの映画の主演であるが、実質周りにいる女性や子供たちが実はこの映画の核でもある。『アイリッシュマン』やら『ゴッドファーザーPART3』と類似できるかもしれない。

 

 そしてこの映画はよりヤクザの跡が濃い人生を送り苦労する羽目になる暗示があるのが、本作で登場する翼である。翼は育ってきた環境うえ、カタギになることができす、それでも立派なヤクザになれずいわゆるハンぐれみたいな中途半端な感じでしか生きていくことができない。結果的にヤクザと警察の縦の権力抗争に巻きこまれるのは若い世代であり、負の連鎖が続いていくことを暗示しているのだ。そして翼がグレーな商売をしている先で犠牲になっているのはいわゆるJKビジネスだったり性産業に従事している女性たちである。これは賢治もしていたことであるが、結果的に変わらず女性たちは搾取され続けるんだよな。まあこの映画はちゃんとそこを描き切っているかと言えば、全くそんなことは無かった気がする。

 

『東京リベンジャーズ』WOWOW

『東京リベンジャーズ』

 

 しがないフリーターのタケミチはある日、TVのニュースで元恋人のヒナと、彼女の弟のナオトが半グレ集団の抗争に巻き込まれ亡くなったことを知る。翌日、駅のホームにいたタケミチは何者かに背中を押されて転落するが、電車にひかれる一瞬前、10年前の高校時代に飛ぶ。過去で見つけたヒナを救う方法はヤクザも恐れる危険な組織“東京卍會”を壊滅させること。タケミチはタイムリープを繰り返し、過去を変えようと奮闘する。

 

 まず舞台が現代で劇中でもセリフがある通り不良がダサいと言われる時代の不良映画である。しかしかなり不良に対して情熱っぽく描いており、特に過去に戻って現在を変えるみたいなとてもロマンチックな映画だと思った。漫画原作であるが、これはとても面白かった。

『グロリアス 世界を動かした女たち』

 

グロリアス 世界を動かした女たち』(The Glorias)

 

アメリカのフェミニズム活動家グロリア・スタイネムの伝記映画。大学時代に留学したインドで男性から虐げられている女性たちの悲惨な経験を見聞きしたグロリアは帰国後、ジャーナリストとして働き始める。しかし、社会的なテーマの記事を書きたいと思っても、女だからとファッションや恋愛のコラムしか任せてもらえない。そこで彼女は、高級クラブの「プレイボーイ・クラブ」に自らバニーガールとして潜入し、その内幕を記事にして女性を商品として売り物にする実態を告発する。徐々に女性解放運動の活動家として知られるようになった彼女は1972年、仲間たちとともに女性主体の雑誌「Ms.(ミズ)」を創刊。未婚女性=Miss(ミス)や既婚女性=Mrs.(ミセス)とは別に、未婚・既婚を問わない女性の新しい敬称=Ms.として、全米各地の女性に受け入れられていく。

 

 恥ずかしい話であるが、私はこの映画を観るまでグロリア・スタイネムを具体的に知らなかった。プレイボーイに潜入取材した話やMs.の話を断片的に聞いたことある程度であった。そんなグロリア・スタイネムを幼少期から晩年の2016?年あたりを描いているのが本作である。上映時間が長いので幼少期から丁寧に描かれているのが特徴であるが、伝記映画にありがちな退屈なストーリー展開になっておらず映画の本編に効果的に視覚効果が面白い感じで差し込まれており(例えば若くて反論できなかった差別発言に大人になったグロリアが公然と反論するSFみたいなシーンをさしこんだり、幼少期と十代と大人になったグロリアが会話したり)、飽きない作りになっており、これは過去にフリーダ・カーロの伝記伝記映画などを手掛け本作の監督である女性映画監督のジュリー・テイモアの作家性に寄るところが大きい。

 

 映画のラストにはグロリア・スタイネム本人も登場し、まあ伝記映画としては反則なんだけど、あれだけ凄い人物なのだからご本人が登場してもいいじゃないか。この辺含めてRGBの伝記映画を思い出した。あの映画もラストにご本人が登場したので。

 

 ただよく作られている作品であるが、本作では白人以外のフェミニズムも取り扱っており、例えばブラックフェミニズムを始めとする人種問題や労働問題やグローバリズムやポルノの問題や同性愛について断片的であるが扱っている。意図的なのか分からないが、トランスジェンダーについては一切扱われていなかった。少し盛りすぎなところもあるのは否めない。もちろんフェミニズムは把握しておかなければいけない分野がたくさんある運動や思想なので当たり前なのだが、映画として観ると少し話が盛りすぎになってしまいやりすぎな感じを受ける。(これは女性の活動のダブルスタンダートでいっつも女性の活動にだけつきまとう批判であるが、やはり2022年においてはインターセクショナリティという考え方の方が主流なので)

 

 また避けて通れないのがやはり物語が白人中心的になってしまっているだ。もちろんグロリアの功績と活躍は凄いし、彼女の苦労を潰そうとしようという気持ちは一切ないし、これはまあ少し意地悪な批判だが、映画のラストがワシントンでのWomen's Marchでのスピーチで終わったので余計感じたことだが、あの行進は当時のアメリカ大統領のトランプの就任に反動して行われた行進という意味付けが強いのだが、そんなトランプに50%近くの白人女性が投票した事実があるので、映画としてラストに持ってくるのは正直失敗だと思う。その事実があるためこの映画における白人女性以外の描写の薄さがラストのせいで余計際立つ結果になってしまった。

 

 あとポスター詐欺というか、この映画のポスターにはジャネール・モネイがいるのだが、当のジャネールは一瞬しかでないというかまあこの映画でジュリアン・モーアとアリシア・ビガンダーにつぐ有名人なので仕方ないけど、、ポスター詐欺じゃないかな。

『ロスト・ドーター』Netflix

『ロスト・ドーター』(The Lost Daughter) Netflixオリジナル

 

海辺の町へバカンスにやって来た中年女性レイダは、ビーチで見かけた若い母親ニーナと幼い娘の姿に目を奪われる。母娘の関係に動揺したレイダは、かつて自分が母親になったばかりで恐怖と混乱に満ちていた頃の記憶に押しつぶされそうになり、心の中の不気味な世界へと迷い込んでいく。

 

 監督兼脚色がマギー・ギレンホールで出演がオリビア・コールマン、ジェシー・バックリー、ダコタ・ジョンソンエド・ハリスピーター・サースガードと超豪華である。初監督らしいがかなり上手に撮影してある。

 

 まず映画全体から常に不穏な空気で進んでいき、なぜレイダがビーチで若い母親ニーナとその娘に夢中になってしまうのか物語の後半で少しずつ明かされる。映画の内容は今までの作品でひたすら神聖化された母性や母親を人間化することに重きを置いている。そのぞっとするほどの他人である子どもが機嫌が悪くなったりぐずったりするシーンは映画と分かっていてもかなりこちらも体調が悪くなる。おそらくこれは狙った演出である。この内容や演出は最近だと『カモン カモン』でも同じだった。母親や母性を神聖化せずしっかりと描く感情を持った完ぺきではない(もしくは悪い点を持った)人間として描こうとするのは最近の流行なのかと。

 

 またこの映画では母親同士なら無条件で協力し合えるよね的な神聖視せず、母親同士だからと言って簡単に協力し合えるものでもないんだということを描いてもいた。まあレイダも勝手に人形奪ったり、ビーチでひたすら人間観察してれば周りから気味悪がられるのも無理はない気がするが。

 

 映画のラストではレイダに成長した娘から心配する電話がかかってきて涙を流して喜ぶ(もしくは呆れていたのか)オチで終わる。映画としても子供を捨てた母親を良くも悪くも断絶しないオチ、もしくは観客に委ねているラストにしていた。

 

『不都合な理想の夫婦』

 

『不都合な理想の夫婦』(The Nest)

 

一見すると理想的だが虚飾と野心に満ちた夫婦が崩壊していく様を描いた心理スリラー。1986年。ニューヨークで貿易商を営むイギリス人のローリーは、アメリカ人の妻アリソンと息子と娘と4人で幸せに暮らしていた。ローリーは大金を稼ぐ夢を追い、好景気に沸くロンドンへ家族とともに移住する。かつての上司が経営する商社で働くことになったローリーは、仕事では周囲から高く評価され、プライベートではロンドン郊外に豪邸を借り、息子を名門校に編入させ、妻には広大な敷地を用意するなど、まるでアメリカンドリームを体現した勝者の凱旋のようだった。しかし、ある日、アリソンは敷地内の馬小屋の工事が進んでいないことに気付く。業者に問い合わせると、支払いが滞っているという。さらに驚くべきことに、新生活のために用意していた貯金が底を突いていることを知ってしまう。

 

 予告観た時はあんまり期待できないなとかなりハードルを下げて鑑賞したのを公開するくらい面白かった。最初から崩壊していた夫婦と家族と巣(Nest)の綻びみえてくるストーリー展開でそれがどんどん観客に提示されていく様がすごく怖くて嫌だけどものすごく面白い。また画面がずっと不穏で薄い自然光が登場人物の特にローリーの軽薄さを表現しているのが良い。また映画全体を覆っている不穏な音楽も良い演出だ。たぶんこの監督はどんな映画を作っても上手に撮ると思う。またこの映画は登場人物を遠くから撮るシーンが何回かあって、舞台がイギリスということもありスタンリー・キューブリックから影響を受けているのではないか?そういえばこの映画はローリーが狂気に襲われて家族を物理的に襲わない『シャイニング』みたいな映画ではあるなと思う。またイギリス版『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でもある。

 

 私はローリーの嘘をつきまくったり破滅的な人生を辿ってしまう(たぶんこれが俗にいうサイコパスだ)のに少し共感してしまうし、アリソンの人を支配したいという欲求も少し共感してしまった。まああまり良くないのだが。ラストで子ども達(子供たちも自暴自棄になったりして、特に長女はタバコ吸ったりラりったりするんだけど、このくらいの子どもにしては平均的な行動だと思う)が親を置いておいて普通の生活をするために朝ごはんを作るんだけど、そういえばこの家族は一家で団欒をとるシーンが全く無かったよな。家(The Nestという原題は引っ越ししてきた大きな家のことだ)も大きくなって、もともと団欒が喪失していた家族が余計団欒が喪失していった。そして皮肉にもラストに団欒をとるシーンを差し込んで映画が終わったのも示唆的だ。

『ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』

マルチバーズ・オブ・サムライミ(笑)

 

 

ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス』
(Doctor Strange in the Multiverse of Madness)

 

マルチバースの扉を開いたことで変わりつつある世界を元に戻すため、アベンジャーズ屈指の強大な力を誇るスカーレット・ウィッチに助けを求めるストレンジ。しかし、もはや彼らの力だけではどうすることもできない恐るべき脅威が人類に迫っていた。その脅威の存在は、ドクター・ストレンジと全く同じ姿をした、もう一人の自分だった。

 

 こういう大型作品だとどうしても自分の良さを殺してしまうのがセオリーであるが(それゆえ大型作品は監督交代がよく起きるのだろう)、最近のマーベルは『エターナルズ』を先行として結構監督の作家性を尊重している気がするが、本作でもサム・ライミ監督のホラーテイストがまったりではあるがしっかりと出ていたのが良かった。(個人的にはMCUつながりでスパイダーマンの次に来た作品が本作だったため、そしてその監督が元祖スパイダーマン映画シリーズの監督であったサム・ライミが監督してる事実に感動してしまった。もちろんこれはMCUが狙ってやっているんだろう) ドクターストレンジの能力を上手に使ったアクションや新しく加わったキャストも良い。

 

 しかし個人的に話の内容がすごく嫌だったというか、荒ぶったワンダの母性をみんなで鎮める話で、まあワンダの話は『ワンダビジョン』を観ていなくて彼女の怒りが全く分からなかったんだけど、あんなにフェーズ3で活躍させたワンダを本作のヴィランにそえていいのか?と思ってしまった...もうワンダには幸せになってもらいたかったので、本作でのヴィラン的な立ち位置には不満である。というかMCUは母親の話が全くなかったのにようやく出てきてこんな感じかという印象だし、ナターシャといいワンダといい女性ヒーローのステレオタイプを引き受けた女性に対して扱いが酷いというか...改善して欲しい。

 

 あと個人的にスパイダーマンシリーズで出てきたマルチバースという概念があんまり好きじゃないというか、話が複雑になってきて心が離れてきている(笑)それにスパイダーマンは役者が違うのに、それ以外のヒーローはマルチバースでも役者が同じなのはツッコミを入れてはいけない?(笑)